「咲子が駅で待ってる。一緒に外で食事しようって」
「お姉ちゃんが? あ、そうか。今日……」
「お父さんとお母さんデートみたいだから夕飯ないんだって」
「うん、昨日そんなこと言ってた」
うちの両親は、未だにすっごく仲が良くて私達が高校生になった頃から月に一度は夜にデートに出かける。
そんな日は、姉がご飯を作ってくれたり外に食べに行ったり、そして大抵お隣に住む悠君も一緒。 悠君の家は両親共に仕事で遅くまで帰って来ないことが多く、子供の頃からよくうちにご飯を食べに来ていた。 駅に着くと、お姉ちゃんがいち早く私達を見つけて片手を上げる。 ふわりと花が咲いたみたいに優しく笑う姉に、私は駆け寄った。「綾、おつかれ」
「お待たせ、お姉ちゃん!」
「そんなに待ってないわよ」
言いながら、手の中にあった小説を鞄に仕舞い込むと私から悠君へと視線を流す。悠君は私よりも少し後ろについて来ていた。
「悠君、ありがとう。そんなに毎日迎えに行かなくても、綾も子供じゃないんだし」
「わざわざ、ってわけじゃないよ。大学の帰りに寄ってるだけ」
「毎日こんな遅い訳ないでしょ? 相変わらず綾には甘いんだから」
肩を竦めるお姉ちゃんを、悠君はバツが悪そうな笑顔を浮かべて見下ろす。
そうしたら、お姉ちゃんは『仕方ない』とでも言いたげに、苦笑い。―――あ。
二人が醸し出す、少し大人びた空気を感じる度に、私は少し疎外感を感じてしまう。
だから、二人の間に割り込んで両腕をそれぞれの腕に絡め定位置を陣取った。「悠君は甘いんじゃなくって心配性なんだよ」
「どっちも大して変わらないわよ」
しっかりした姉と、更に年上の悠君。
二人にくっついて回る甘えたの私。 幼い頃から変わらない関係図が、この頃少し寂しい。 二人が通う大学に、追いかけようとして私だけが落ちて、いつまでも追いつけないのは年の差ばかりでもない気がして。 私一人置いてけぼりになりそうな気がして、私はまたつい、甘えてしまう。「何食べる? 私ハンバーグ食べたい」
「出た、綾のお子様メニュー。私は和食がいいな」
「じゃあファミレスだな」
悠君の言葉が合図で、三人同時に歩き出した。
右側に絡んだ悠君の腕が暖かくて、さっきの寂しさが少し癒される。 いつの頃からか悠君は特別。 気が付いたら悠君ばっかり目が追いかけて、他の男の子を意識したこともない。 もう、何年越しだろう。 私は、もうずっと長い事、悠君しか見えてない。橙色だった空は少しずつ色味を変えて今は薄い藍色が広がり、その中にポツポツと明度の高い星から順に浮かび始める。
大通りもいつのまにか街灯が付き、夜の装いへと変わっていた。 駅に向かう人や、私達と同じ方向へ向かいながら、飲みに行こうと騒ぐ集団。 殆どが、大学生やスーツを着た大人の人。 お姉ちゃんと悠君も、もし私が居なかったら ファミレスじゃなくて、ちょっとおしゃれなお店にお酒を飲みに行ったりするのかな。「で、バイトはどんな感じなの? ちゃんとやっていけそう?」
少しの心配の色を隠しながら、私の表情を伺う。
私はにこりと笑って、返事をする。「大丈夫、緊張はするけど二人とも良い人だと思う」
姉の心配は当然のことで、悠君が私を少し甘やかし気味なのにも実はちょっと理由がある。
大学受験を失敗した後、私は随分長い事ふさぎ込んでしまっていた。
落ちてすぐはそうでもなかったけれど、四月に入って友人皆が新生活をスタートさせた時、何の目標もない私は予備校に通うでもなく就職を探すでもなく、すっかり出遅れてしまったのだ。「綾があそこでバイトしたいって言った時は、本当に驚いたけど……安心したわ」
「お姉ちゃんが無理矢理オープンキャンパスに引っ張り出してくれたおかげだよ」
「……本当は、もう一度大学を目指してもらおうと思っての荒療治だったんだけどね?」
姉の思惑とは別の目的ではあるけど、私はもう一度外に出るきっかけを得てすごく感謝してる。
だけど、無気力になってしまってた時期を二人は知ってるから今でも心配が拭えないらしい。 だから毎日迎えに来てくれたり、何かと話を聞きだそうとする。そんな二人に、少しでも安心して欲しくて私はいつもより更に饒舌にバイト先のことを話した。
「男の人しかいないから最初ちょっと怖かったけど、全然! すごくいい人だよ。すっごく暇だから楽だし」
事実、片山さんはなんだかすっごく軽そうだけど優しくて、よく気にかけてくれる。マスターの一瀬さんも、寡黙な人で笑わないイメージだったから少し気後れしてたけど……多分、悪い人じゃない。
ふっと、今日の別れ際の一瀬さんの笑顔が脳裏に浮かび、それを目にした瞬間よりは少し小さく、鼓動が跳ねた。 そりゃあんな綺麗な男の人に、あんな風に微笑まれたらどきどきもする。 しかも、普段殆ど笑わないひとだもの。 弾む鼓動の理由に、そんな風に納得して私は右側の悠君を見上げた。 「そういや……迎えに行ってもあんまり客入ってるとこ見たことないな」「あはは、そうでしょ。大丈夫なのかなぁ」
「そんなに暇なのに、なんでバイト募集なんてしてたのかしらね」
「片山さんは厨房スタッフだし、やっぱりホール担当も一人は必要だから……かな? 多分」
前面がガラス張りのその店は、緩やかな傾斜のバス通りから店内の様子が良く見えた。 ウッド調の内装、入口から左側はたくさんの花で無数の色が溢れ返り、右側のカフェスペースは通りの並木が程よく日差しを和らげて、内装と同じく無垢材のテーブルとイスが並べられている。 高校三年生の時、志望大学のオープンキャンパスに向かう途中で、私はそのカフェに目が釘付けになった。 大学までは、バスがある。 けれど歩けないほどでもなく、少し早めに家を出たための時間潰しにと徒歩で向かっていた。「あ、明日がオープンかぁ」扉に貼られた張り紙を見て、肩を落とした。 ガラスを通して見える店内の様子は、左側がカフェの装飾というには余りに花に溢れている。 不思議に思ってもう一度張り紙に視線を戻すと、明日の日付にOPENの文字。 そして、『花屋カフェflower parc』と書かれていた。―――あ、こっちはお花屋さんなんだ。出入り口の左側がきっと、花屋としてのスペースなんだろう。 花は種類ごとに分けて入れられ花の名前と値段が書かれたポップが貼られていた。 よく見ると、まだ何も置かれていない空いたスペースもある。 きっと開店当日の明日にはそのスペースも花で埋められる。 右側のカフェスペースとは中央のレジのあるスペースで分けられているが、遮るものは少ない。 あのテーブル席から、この花で溢れたスペースはきっとよく見えるだろう。 ―――こんなにたくさんの花を見ながら、お茶を飲めるなんて。元から花が大好きな私は想像しただけで胸が躍って、明日のオープンにもう一度来てみようか、なんて。 その時の私は、考えていた。*** 「結局、そのオープンの日には来なかったんですけどね」「へえ。それはなんで?」「大学に受かったら、来ようと思って! 願掛けのつもりだったんです」店内には、静かにクラシックのBGMが流れている。私がこの店に一目ぼれしたのはもう一年以上前の話で、その時の感動を思い出しながらついうっとりと熱弁してしまっていた。 相槌を打ってくれている厨房スタッフの片山さんは、白い制服姿で客用スツールに腰かけている。私はカウンターの中で、プラスチックの平たい番重からケーキをガラスのショーケースに移していた。「あ、じゃあ綾ちゃんって大学生? てっきりフリーターだと」「……フリーターで
「すみません。どんくさくって」たったあれだけの作業で手間取ってしまって、きっと呆れられた。恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じながら俯いていると、くすくすと笑い声が上から落ちてくる。「仕方ないよ、まだ一週間だし……何より、教えてくれるはずのマスターがアレだしね」「はあ……」笑ってくれたことに少しホッとしたのと、『アレ』と含みを持たせた言い方に私もつい苦笑いを浮かべてしまう。確かに……とカウンター奥の階段に目をやる。階段が続く二階は住居スペースになっているらしい。このカフェのマスターである一瀬さんはそこで暮らしていて開店の十分程前に降りてくる。「教えるとかほんと向いてないよな、あの人」「いえ……そんなことは。私が気が利かないだけで」一応、マスターの顔を立ててそう言ったけど、零れる苦笑いは隠せない。確かに、あの人は教えるつもりがないのか、もしくは「見て覚えろ」とスパルタ系の人なのかと思ってしまうほど、バイト初日からほったらかしだった。見兼ねた片山さんが厨房から出てきて指示を出してくれるまで、私はおろおろとマスターから数歩離れた距離を保ってついて回るだけだった。『わかんないこととか、何したらいいか、とか、ちゃんと口に出して聞けばいいよ。男ばっかで聞きづらいかもしれないけど』片山さんがそう私に声を掛けてくれて、そのことで漸く気付いてくれたらしい。『じゃあ、伸也君。三森さんに仕事を教えてあげてください』きっとその瞬間まで、『教える』という事項はマスターの頭の中になかったんだと思う。「じゃあ、って。バイト初日の子が居たら普通、何からしてもらおうかくらい考えとくもんだよな」「あはは。研修資料とか指導カリキュラムとか、そういうのはないんでしょうか?」「ないない。そんなんあったら前のバイトの子も辞めてない」初日のことを思い出して二人で含み笑いをしていると、階段から足音が聞こえて二人同時に肩を竦めた。「おはようございます、伸也君、三森さん」「おはようございます、マスター」白いシャツの男性が階段を降りてくるのが見えて、私はぺこりと九十度のお辞儀をする。比べて、片山さんは「っす」とか語尾だけが聞こえた挨拶にもならない音を発しただけでするりと厨房に入っていった。マスターと二人取り残されて、一瞬の沈黙に私は忙しなく思考回路を働かせる。なぜだか
「ほらね、暇だったっしょー」夕暮れ時、天気の良い今日は西日が強い。日よけにサンシェードを天井から半分ほど下げて、それでも陽射しは暖かく店内に入り込み店の中も外も同じオレンジ色に染めてしまう。透明な光に、徐々に橙色が滲み始めるのをのんびりと見ていられるのは、暇だから故、なのだけど。「や、でも! お昼時はちゃんとお客さん入ったじゃないですか!」「そりゃ昼もゼロじゃ話にならないでしょ」カウンターに設置されている客用のスツールで片山さんはくるくると周りながらそんな話をする。私達の休憩用のコーヒーを淹れながら無言のマスターが気になって取り繕う言葉を探すけれど、見つからない。「どうぞ」ことん、ことんとカップが二つ、カウンター越しに置かれる。「ありがとうございます」とそのうちの一つを手に取ってマスターを見上げると、片山さんの言葉なんか何も気にした様子でもなく、目を閉じて自分のカップに口を付けていた。ほっとすると同時に、少し残念だった。マスターは、この現状をどうにかしようとは考えないのだろうか。視線を逸らして、店内を見渡す。コーヒーの香り漂う、静かな店内。素敵な店内だけれど、あのオープン前のように花に溢れたスペースは明らかに減っている。花は売れなければ処分するしかない。コストがかかることもあり、余りたくさん仕入れることが出来なくなってしまったらしい。お客さんが入ればある程度の時間までは延長するけれど、ゼロなら夕方六時で閉店。この辺りは大学やオフィスが多くて、ランチのお客様を逃せば夜は余り客入りは見込めない。どうしても、お酒やしっかりした食事の出る店に客足は向いてしまうからだ。壁の時計を見上げれば、ちょうど六時を指していた。「あっ。今日もお迎えがきたよお姫様」片山さんの言葉に、私はくるんと振り向いて店の外に目を向ける。ガラスの向こうに、背の高いすらりとした立ち姿を見つけて、私は小さく手を振った。「毎日毎日、過保護な彼氏だよねえ」「えっ、やだ、違いますよっ! ただの幼馴染ですっ!」片山さんにからかわれて慌てて否定するけれど、熱くなっていく顔は止められなかった。これ以上からかわれまいと、カップに残ったコーヒーを慌てて飲み干す。まだ少し熱かったせいで、喉からお腹の中まで熱が通って、ぎゅっと目を閉じて堪えた。そんな私はやっぱりから
「咲子が駅で待ってる。一緒に外で食事しようって」「お姉ちゃんが? あ、そうか。今日……」「お父さんとお母さんデートみたいだから夕飯ないんだって」「うん、昨日そんなこと言ってた」うちの両親は、未だにすっごく仲が良くて私達が高校生になった頃から月に一度は夜にデートに出かける。そんな日は、姉がご飯を作ってくれたり外に食べに行ったり、そして大抵お隣に住む悠君も一緒。悠君の家は両親共に仕事で遅くまで帰って来ないことが多く、子供の頃からよくうちにご飯を食べに来ていた。駅に着くと、お姉ちゃんがいち早く私達を見つけて片手を上げる。ふわりと花が咲いたみたいに優しく笑う姉に、私は駆け寄った。「綾、おつかれ」「お待たせ、お姉ちゃん!」「そんなに待ってないわよ」言いながら、手の中にあった小説を鞄に仕舞い込むと私から悠君へと視線を流す。悠君は私よりも少し後ろについて来ていた。「悠君、ありがとう。そんなに毎日迎えに行かなくても、綾も子供じゃないんだし」「わざわざ、ってわけじゃないよ。大学の帰りに寄ってるだけ」「毎日こんな遅い訳ないでしょ? 相変わらず綾には甘いんだから」肩を竦めるお姉ちゃんを、悠君はバツが悪そうな笑顔を浮かべて見下ろす。そうしたら、お姉ちゃんは『仕方ない』とでも言いたげに、苦笑い。―――あ。二人が醸し出す、少し大人びた空気を感じる度に、私は少し疎外感を感じてしまう。だから、二人の間に割り込んで両腕をそれぞれの腕に絡め定位置を陣取った。「悠君は甘いんじゃなくって心配性なんだよ」「どっちも大して変わらないわよ」しっかりした姉と、更に年上の悠君。二人にくっついて回る甘えたの私。幼い頃から変わらない関係図が、この頃少し寂しい。二人が通う大学に、追いかけようとして私だけが落ちて、いつまでも追いつけないのは年の差ばかりでもない気がして。私一人置いてけぼりになりそうな気がして、私はまたつい、甘えてしまう。「何食べる? 私ハンバーグ食べたい」「出た、綾のお子様メニュー。私は和食がいいな」「じゃあファミレスだな」悠君の言葉が合図で、三人同時に歩き出した。右側に絡んだ悠君の腕が暖かくて、さっきの寂しさが少し癒される。いつの頃からか悠君は特別。気が付いたら悠君ばっかり目が追いかけて、他の男の子を意識したこともない。もう、何年越し
「ほらね、暇だったっしょー」夕暮れ時、天気の良い今日は西日が強い。日よけにサンシェードを天井から半分ほど下げて、それでも陽射しは暖かく店内に入り込み店の中も外も同じオレンジ色に染めてしまう。透明な光に、徐々に橙色が滲み始めるのをのんびりと見ていられるのは、暇だから故、なのだけど。「や、でも! お昼時はちゃんとお客さん入ったじゃないですか!」「そりゃ昼もゼロじゃ話にならないでしょ」カウンターに設置されている客用のスツールで片山さんはくるくると周りながらそんな話をする。私達の休憩用のコーヒーを淹れながら無言のマスターが気になって取り繕う言葉を探すけれど、見つからない。「どうぞ」ことん、ことんとカップが二つ、カウンター越しに置かれる。「ありがとうございます」とそのうちの一つを手に取ってマスターを見上げると、片山さんの言葉なんか何も気にした様子でもなく、目を閉じて自分のカップに口を付けていた。ほっとすると同時に、少し残念だった。マスターは、この現状をどうにかしようとは考えないのだろうか。視線を逸らして、店内を見渡す。コーヒーの香り漂う、静かな店内。素敵な店内だけれど、あのオープン前のように花に溢れたスペースは明らかに減っている。花は売れなければ処分するしかない。コストがかかることもあり、余りたくさん仕入れることが出来なくなってしまったらしい。お客さんが入ればある程度の時間までは延長するけれど、ゼロなら夕方六時で閉店。この辺りは大学やオフィスが多くて、ランチのお客様を逃せば夜は余り客入りは見込めない。どうしても、お酒やしっかりした食事の出る店に客足は向いてしまうからだ。壁の時計を見上げれば、ちょうど六時を指していた。「あっ。今日もお迎えがきたよお姫様」片山さんの言葉に、私はくるんと振り向いて店の外に目を向ける。ガラスの向こうに、背の高いすらりとした立ち姿を見つけて、私は小さく手を振った。「毎日毎日、過保護な彼氏だよねえ」「えっ、やだ、違いますよっ! ただの幼馴染ですっ!」片山さんにからかわれて慌てて否定するけれど、熱くなっていく顔は止められなかった。これ以上からかわれまいと、カップに残ったコーヒーを慌てて飲み干す。まだ少し熱かったせいで、喉からお腹の中まで熱が通って、ぎゅっと目を閉じて堪えた。そんな私はやっぱりから
「すみません。どんくさくって」たったあれだけの作業で手間取ってしまって、きっと呆れられた。恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じながら俯いていると、くすくすと笑い声が上から落ちてくる。「仕方ないよ、まだ一週間だし……何より、教えてくれるはずのマスターがアレだしね」「はあ……」笑ってくれたことに少しホッとしたのと、『アレ』と含みを持たせた言い方に私もつい苦笑いを浮かべてしまう。確かに……とカウンター奥の階段に目をやる。階段が続く二階は住居スペースになっているらしい。このカフェのマスターである一瀬さんはそこで暮らしていて開店の十分程前に降りてくる。「教えるとかほんと向いてないよな、あの人」「いえ……そんなことは。私が気が利かないだけで」一応、マスターの顔を立ててそう言ったけど、零れる苦笑いは隠せない。確かに、あの人は教えるつもりがないのか、もしくは「見て覚えろ」とスパルタ系の人なのかと思ってしまうほど、バイト初日からほったらかしだった。見兼ねた片山さんが厨房から出てきて指示を出してくれるまで、私はおろおろとマスターから数歩離れた距離を保ってついて回るだけだった。『わかんないこととか、何したらいいか、とか、ちゃんと口に出して聞けばいいよ。男ばっかで聞きづらいかもしれないけど』片山さんがそう私に声を掛けてくれて、そのことで漸く気付いてくれたらしい。『じゃあ、伸也君。三森さんに仕事を教えてあげてください』きっとその瞬間まで、『教える』という事項はマスターの頭の中になかったんだと思う。「じゃあ、って。バイト初日の子が居たら普通、何からしてもらおうかくらい考えとくもんだよな」「あはは。研修資料とか指導カリキュラムとか、そういうのはないんでしょうか?」「ないない。そんなんあったら前のバイトの子も辞めてない」初日のことを思い出して二人で含み笑いをしていると、階段から足音が聞こえて二人同時に肩を竦めた。「おはようございます、伸也君、三森さん」「おはようございます、マスター」白いシャツの男性が階段を降りてくるのが見えて、私はぺこりと九十度のお辞儀をする。比べて、片山さんは「っす」とか語尾だけが聞こえた挨拶にもならない音を発しただけでするりと厨房に入っていった。マスターと二人取り残されて、一瞬の沈黙に私は忙しなく思考回路を働かせる。なぜだか
前面がガラス張りのその店は、緩やかな傾斜のバス通りから店内の様子が良く見えた。 ウッド調の内装、入口から左側はたくさんの花で無数の色が溢れ返り、右側のカフェスペースは通りの並木が程よく日差しを和らげて、内装と同じく無垢材のテーブルとイスが並べられている。 高校三年生の時、志望大学のオープンキャンパスに向かう途中で、私はそのカフェに目が釘付けになった。 大学までは、バスがある。 けれど歩けないほどでもなく、少し早めに家を出たための時間潰しにと徒歩で向かっていた。「あ、明日がオープンかぁ」扉に貼られた張り紙を見て、肩を落とした。 ガラスを通して見える店内の様子は、左側がカフェの装飾というには余りに花に溢れている。 不思議に思ってもう一度張り紙に視線を戻すと、明日の日付にOPENの文字。 そして、『花屋カフェflower parc』と書かれていた。―――あ、こっちはお花屋さんなんだ。出入り口の左側がきっと、花屋としてのスペースなんだろう。 花は種類ごとに分けて入れられ花の名前と値段が書かれたポップが貼られていた。 よく見ると、まだ何も置かれていない空いたスペースもある。 きっと開店当日の明日にはそのスペースも花で埋められる。 右側のカフェスペースとは中央のレジのあるスペースで分けられているが、遮るものは少ない。 あのテーブル席から、この花で溢れたスペースはきっとよく見えるだろう。 ―――こんなにたくさんの花を見ながら、お茶を飲めるなんて。元から花が大好きな私は想像しただけで胸が躍って、明日のオープンにもう一度来てみようか、なんて。 その時の私は、考えていた。*** 「結局、そのオープンの日には来なかったんですけどね」「へえ。それはなんで?」「大学に受かったら、来ようと思って! 願掛けのつもりだったんです」店内には、静かにクラシックのBGMが流れている。私がこの店に一目ぼれしたのはもう一年以上前の話で、その時の感動を思い出しながらついうっとりと熱弁してしまっていた。 相槌を打ってくれている厨房スタッフの片山さんは、白い制服姿で客用スツールに腰かけている。私はカウンターの中で、プラスチックの平たい番重からケーキをガラスのショーケースに移していた。「あ、じゃあ綾ちゃんって大学生? てっきりフリーターだと」「……フリーターで